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Little Joe とChicano Movement(3) [テックスメックス]

 前回はデラノのストライキを中心にチカーノ運動について紹介してみました。前回の補足になりますが、興味深いのは、この事件のなかにある種の「共感」が働いていることでしょう。

 メキシコ系の労働運動家Cesar ChavezとNFWAは、(移民である)フィリピン系労働者のストライキに共鳴し、アイルランドからの移民の子孫であるRobert Kennedyは、いちはやくCesar ChavezとNFWAの行動に賛意を示しました。ここからは故郷を失った人々や故あって故郷をさった人々どうしの「共感」が伺えます。それは、例えば、オクラホマからカリフォルニアへ移住する農民一家を主人公にした、スタインベックの小説『怒りの葡萄』(ここでも葡萄が登場する)にアイルランド系の映画監督、John Fordが共感し、映画化を実現し、オクラホマ出身のフォーク・シンガー、Woody Guthrieがこの映画に共感して"Dust Bowl Ballads"で数々の名曲を作ったこととも同じ性質のものだと思います。

 デラノのストライキを契機として、いくつかの動きがありました。例えばブラックパンサーからの影響を受けて、メキシコ系の高校生を中心に先鋭的な政治集団「ブラウンベレー」が結成され、また、テキサスでは、1967年に結成された人権団体、MAYO(the Mexican American Youth Organization)を母体として、1970年メキシコ系住民の待遇改善を進める人権団体、RUP(Raza Unida Party)が結成されました。RUPは、とくにテキサス南部に影響力をもったということです。

http://brownberets.info/
http://en.wikipedia.org/wiki/Brown_Berets
http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/RR/war1.html
http://members.tripod.com/~larazaunida/hist.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Raza_Unida_Party


 以下、無断転載ですが、youtubeにあったLittle Joeの映像へのコメントから。日本で例えるなら、「労音」を回っていた、というようなことでしょう。多分下の文にあるLa RazaはRUPのことであり、彼らが運営したのが、Labor Camp Dance Hallのことを示すのでしょう。

http://jp.youtube.com/watch?v=BOXkv81S24E

"Tejano Legend Souls at their best . Thanks for posting . Brown and proud . Sinton,Tejas . In his youth Little Joe use to come to play at the Labor Camp Dance Hall in Sinton,Tejas and he has always been for La Raza and our proud culture and is a very humble human person ."

 以上はほんの一部ですが、チカーノの組織力やネットワークの構築力を感じさせるできごとです。もちろん、当時の若い音楽家たちが、なんらかのかたちで(例えば営業面でも)RUPのような組織やネットワークの影響下にあったのは上記の文面からも明らかでしょう。

 1960年代カリフォルニアにおける労働問題に端を発したチカーノ運動は、労働者の待遇改善という問題意識からやがてメキシコ系住民の人権問題に発展し、学生運動や芸術家の表現にかかわる運動への展開も示しました。

 ロックのフィールドにもサンタナをはじめとする「ラテン・ロック」が台頭した、ということになります。

 おおまかにいってカリフォルニア北部、サンフランシスコ周辺で1960年代後半に登場したサンタナたちと、ロスアンジェルス周辺のイーストLAの音楽家たち、1959年に亡くなったRichie Valensをはじめとし、1960年代に活躍したThee Midnightes,近年ではLos Lobos という名前を挙げることができます。

http://jp.youtube.com/watch?v=gMOBBho_Y3I
http://jp.youtube.com/watch?v=Wq3gUqqQTCE
http://jp.youtube.com/watch?v=fMOySSWPRN0

 彼らに共通する特徴は、サンフランシスコ、ロスアンジェルスという音楽の巨大産業が展開されている都市で活動していた、ということと、日常生活はともかくとして、積極的にアングロアメリカンの社会にとけ込み、音楽ビジネスの中枢に入り込むチャンスがあった、ということでしょう。
 
 Richie Valensの"La Bamba"ほかごく一部を例外として、ほとんどのアーティスト、グループが英語の曲を歌っていました。L.A.ロカビリーのスターに、明らかにメキシコ系と思われるシンガーもいましたが、勿論彼らも英語で歌っていたのでしょう。

 西海岸の音楽家が、本格的にスペイン語で自己主張しはじめたのは、ずっとあとになって、いわゆるChicano Rapくらいからじゃないでしょうか。

http://jp.youtube.com/watch?v=5lbdMjJyRn4

ここで描かれているローライダーなどの風俗(あとズートスーツ)は1950年代からあり、メキシコの詩人、オクタビオ・パスは、『孤独の迷路』のなかで、もっともメキシコの本質を体現しているのはロスアンジェルスのパチューコだ、と指摘していました。

 さて、こうした社会状況、音楽状況のもと、Little Joeは1960年代後半から70年代にかけて、精力的に音楽活動を展開します。




 

 
 















 

 




 
 

 


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吾妻虎太郎

deacon_blueさん niceありがとうございます!!

by 吾妻虎太郎 (2008-05-10 05:07) 

吾妻虎太郎

ベアトラックさん、nice ありがとうございます!!

by 吾妻虎太郎 (2008-05-10 17:58) 

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