Little Joe とChicano Movement(2) [テックスメックス]
今回は前回に引き続きチカーノ運動を取り上げてみます。
まず最初は、メキシコ移民の歴史の展望から。
米国におけるメキシコからの移民の歴史は古く、1845年〜1854年の米西戦争、1846年〜1848年の米墨戦争にまでさかのぼることができる。しかし米墨両国の領土画定以降では、20世紀初頭、米国経済の急成長に伴う農業や建築、鉄道敷設などにおける労働力の必要から、そしてメキシコ革命(1909年)以後の政情不安などの理由から、メキシコからの移民(=チカーノ)流入が急増した。
その後、大恐慌などの影響で移民の数は減少傾向を示すが、第2次世界大戦中は、再び増加傾向を示した。1942年に米国政府が戦時労働力を確保するための政策、「ブラセロ計画」を実施、その結果として、メキシコからの短期労働力確保が計られたからである。
ブラセロはスペイン語で雇用者を意味し、当初は1947年に終了するはずだったが、農園経営者などからの要請により1951年まで継続、そして1952年には「第2次ブラセロ計画」が実施され、結局1964年に終了(Wikipedia;外国人労働者、では1965年となっている)。この間、約500万人のメキシコ人労働者が米国に流入し、総計2億ドルが故国に送金された、といわれている(『エスニック・アメリカ』(有斐閣、初版)、167頁)。
米国政府指導による大量のメキシコ人労働者流入は、労働予備軍(不就労者)の発生、賃金の改善停滞などの問題を生み、彼らを貧困と差別的状況に追い込んだ、との指摘もされている。また産業構造の変化により、農村部から都市部にメキシコ人労働者が流入し、都市のバリオが形成され、都市における恒常的な失業問題が顕在化していった。
おおよそ以上の通りですが、Little Joe のバイオグラフィーに当てはめてみると、こうした移民の動向とかなり一致していることがよくわかります。彼の父、Salvador "La Cotorra" Hernandezが、ブラセロ計画にのって米国に移り住むようになったかどうかは定かではありませんが、当時の時流にのって彼が米国に移り、綿花農場や鉄道敷設などの労働に従事したのは明らかでしょう。
その息子であるLittle Joeも、10代の若いころは綿花畑で綿摘みに従事していた、ということになります。
このような状況のもと、ヒスパニック系労働者の待遇改善を求めて展開されたのがChicano Movementということになります。
この運動の概要を理解するためには、Cesar Chavez(1927-1993)の動向に注目したいと思います。
彼はメキシコ人農業労働者のための組合を組織し、それを全米的な規模に拡大し、労働運動にダイナミズムを持たせた人物であり、現在でも全米で最も偉大な人権運動家のひとりといわれています。
本筋からははずれますが、Cesar Chavezに関連する労働運動のポスターをご紹介しましょう。1968年、カーネギーホールで開催された、カリフォルニアの葡萄園労働者へのベネフィットコンサートです。米国のジャズやロックのファンにはおなじみのイラストレーターで、日本のイラストレーターたちにも大きな影響を与えたPaul Davisによるもの。
http://www.americaslibrary.gov/aa/chavez/aa_chavez_peace_1_e.html
彼のことを紹介した映像は以下のとおり。
http://jp.youtube.com/watch?v=e7GCCBIgFaQ
Little Joeは、1993年のManuel Penaのインタビューで、彼に興味をもったことや、彼に会ったことに触れています("Musica Tejana",p.166)。
Cesar Chavezのバイオグラフィーは以下のとおり。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cesar_Chavez
http://clnet.ucla.edu/research/chavez/bio/
Cesar Chavezは1942年(15歳)ころから綿摘みの仕事に従事し、1952年からはラテン系労働者の権利を守るための組織、CSO(Community Service Organization)を組織し、その後、Dolores HuertaらとともにNFWA(National Farm Worker Association、後のUFW(United Faemers )を結成した。
1965年9月8日、カリフォルニア州デラノ(ロスアンジェルの北西にある小都市)の葡萄園におけるフィリピン系労働者が待遇改善を求めストライキを敢行したとき、彼らを支持し支援したのがCesar Chavezを中心とするUFWだった。半年後Cesar ChavezとNFWAは、(ストライキの発端となった)デラノから州都であるサクラメントまでの葡萄園労働者の行進を実行し、カリフォルニア全域のヒスパニック系葡萄園労働者のストライキを実現した。NFWAは葡萄園労働者のストライキをサポートするために、全米市民に、食用の葡萄(テーブルグレープ)をボイコットするよう求めた。このストライキは5年の歳月に及び、全米の注目を浴びた。Robert KennedyはCesar Chavezの支持を表明した(その後の米国民主党とメキシコ系労働者組織との関係は今日にまで及んでいる)。この事件は、結局労働者側の勝利に終った。米国ではじめて農業労働者が労働争議において勝利を収めた事件として歴史に刻まれることとなった。
以上が歴史的事件であるデラノのストライキの概要であり、この事件が米国に住むメキシコ系住民に多くの勇気を与えた事は容易に想像できると思います。
次回は、チカーノ運動当時の音楽状況などについて触れてみることにしましょう。
まず最初は、メキシコ移民の歴史の展望から。
米国におけるメキシコからの移民の歴史は古く、1845年〜1854年の米西戦争、1846年〜1848年の米墨戦争にまでさかのぼることができる。しかし米墨両国の領土画定以降では、20世紀初頭、米国経済の急成長に伴う農業や建築、鉄道敷設などにおける労働力の必要から、そしてメキシコ革命(1909年)以後の政情不安などの理由から、メキシコからの移民(=チカーノ)流入が急増した。
その後、大恐慌などの影響で移民の数は減少傾向を示すが、第2次世界大戦中は、再び増加傾向を示した。1942年に米国政府が戦時労働力を確保するための政策、「ブラセロ計画」を実施、その結果として、メキシコからの短期労働力確保が計られたからである。
ブラセロはスペイン語で雇用者を意味し、当初は1947年に終了するはずだったが、農園経営者などからの要請により1951年まで継続、そして1952年には「第2次ブラセロ計画」が実施され、結局1964年に終了(Wikipedia;外国人労働者、では1965年となっている)。この間、約500万人のメキシコ人労働者が米国に流入し、総計2億ドルが故国に送金された、といわれている(『エスニック・アメリカ』(有斐閣、初版)、167頁)。
米国政府指導による大量のメキシコ人労働者流入は、労働予備軍(不就労者)の発生、賃金の改善停滞などの問題を生み、彼らを貧困と差別的状況に追い込んだ、との指摘もされている。また産業構造の変化により、農村部から都市部にメキシコ人労働者が流入し、都市のバリオが形成され、都市における恒常的な失業問題が顕在化していった。
おおよそ以上の通りですが、Little Joe のバイオグラフィーに当てはめてみると、こうした移民の動向とかなり一致していることがよくわかります。彼の父、Salvador "La Cotorra" Hernandezが、ブラセロ計画にのって米国に移り住むようになったかどうかは定かではありませんが、当時の時流にのって彼が米国に移り、綿花農場や鉄道敷設などの労働に従事したのは明らかでしょう。
その息子であるLittle Joeも、10代の若いころは綿花畑で綿摘みに従事していた、ということになります。
このような状況のもと、ヒスパニック系労働者の待遇改善を求めて展開されたのがChicano Movementということになります。
この運動の概要を理解するためには、Cesar Chavez(1927-1993)の動向に注目したいと思います。
彼はメキシコ人農業労働者のための組合を組織し、それを全米的な規模に拡大し、労働運動にダイナミズムを持たせた人物であり、現在でも全米で最も偉大な人権運動家のひとりといわれています。
本筋からははずれますが、Cesar Chavezに関連する労働運動のポスターをご紹介しましょう。1968年、カーネギーホールで開催された、カリフォルニアの葡萄園労働者へのベネフィットコンサートです。米国のジャズやロックのファンにはおなじみのイラストレーターで、日本のイラストレーターたちにも大きな影響を与えたPaul Davisによるもの。
http://www.americaslibrary.gov/aa/chavez/aa_chavez_peace_1_e.html
彼のことを紹介した映像は以下のとおり。
http://jp.youtube.com/watch?v=e7GCCBIgFaQ
Little Joeは、1993年のManuel Penaのインタビューで、彼に興味をもったことや、彼に会ったことに触れています("Musica Tejana",p.166)。
Cesar Chavezのバイオグラフィーは以下のとおり。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cesar_Chavez
http://clnet.ucla.edu/research/chavez/bio/
Cesar Chavezは1942年(15歳)ころから綿摘みの仕事に従事し、1952年からはラテン系労働者の権利を守るための組織、CSO(Community Service Organization)を組織し、その後、Dolores HuertaらとともにNFWA(National Farm Worker Association、後のUFW(United Faemers )を結成した。
1965年9月8日、カリフォルニア州デラノ(ロスアンジェルの北西にある小都市)の葡萄園におけるフィリピン系労働者が待遇改善を求めストライキを敢行したとき、彼らを支持し支援したのがCesar Chavezを中心とするUFWだった。半年後Cesar ChavezとNFWAは、(ストライキの発端となった)デラノから州都であるサクラメントまでの葡萄園労働者の行進を実行し、カリフォルニア全域のヒスパニック系葡萄園労働者のストライキを実現した。NFWAは葡萄園労働者のストライキをサポートするために、全米市民に、食用の葡萄(テーブルグレープ)をボイコットするよう求めた。このストライキは5年の歳月に及び、全米の注目を浴びた。Robert KennedyはCesar Chavezの支持を表明した(その後の米国民主党とメキシコ系労働者組織との関係は今日にまで及んでいる)。この事件は、結局労働者側の勝利に終った。米国ではじめて農業労働者が労働争議において勝利を収めた事件として歴史に刻まれることとなった。
以上が歴史的事件であるデラノのストライキの概要であり、この事件が米国に住むメキシコ系住民に多くの勇気を与えた事は容易に想像できると思います。
次回は、チカーノ運動当時の音楽状況などについて触れてみることにしましょう。
2008-05-06 07:56
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deacon_blueさん いつもありがとさんです。nice ありがとうございます。
by 吾妻虎太郎 (2008-05-10 10:00)