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Little Joe(2) [テックスメックス]

 
 今回はLittle Joeの2回目。

 1960年代の彼の動向について、文献や情報を通して展望してみたいと思います。
 
 後年、Little JoeはManuel Penaに、1958年の初レコーディングについて「当時、実際にはBeto Villaや、Balde Gonzalesの曲を演奏していたが、レコーディングでは、オリジナルなものを作ろう、と決心した」と語っている。この発言から察すると、当時、Little Joeのバンド内における発言力はかなりのものであったと思われる。
 Little JoeはTop 40への思いがかなり強く、その意味でもSunny Ozunaをライバル視していたようだ。しかし結局Top 40への思いはかなわず、また、David Coronadoはテキサスを去っていった。
 Little Joeがリーダーとなり、Top40への思いを貫けなかったLatinairesは伝統的なMusica Tejanaに回帰していくが、それはTejano Marketに衝撃を与る機会ともなった。60年代初期、有名なオルケスタはIsidro Lopezの楽団で、Little Joeはまだ地元でも無名に近かったといってよい。しかし1964年、Dallasのレーベル、Zarape Recordsからアルバム"Por un amor"を発表、タイトルソングは地元でヒットし、彼らの名前は広く知られるようになった。
 この曲について、Manuel Penaは「この曲はテキサスを越えて演奏するようになったビッグヒットだった、と彼は主張するが、そこには誇張があるかもしれない」と指摘している(Musica Tejana,p.154)。
 しかし、彼がこの頃(1964年頃)西海岸のチカーノコミュニティー(サンフランシスコ周辺)で演奏活動をしていたのが事実なら、この発言はあながち誇張とも言い切れないだろう。
 とにかく、このアルバムが彼らがMusica Tejanaのトップに突き進んでいく出発点となったことは間違いないようだ。
 わたし自身は1960年代のLittle Joeはほとんど聞いていないが、それを承知であえて触れてみると,タイトル曲"Por un amor"は、今回紹介するベストアルバムに収録、さらに弟のJohnny Hernandezも先に紹介したアルバム、"Por Quita Fe"で採録している。

どちらのアルバムも試聴できませんが、一応以下、ご覧ください。

http://206.188.209.228/index.asp?PageAction=VIEWPROD&ProdID=587

http://www.haciendarecords.cc/Merchant2/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=HROC2000&Product_Code=HAC-7710+C&Category_Code=Johnny+Hernandez

ついで我がブログも念のため。

http://texmexstrikesagain.blog.so-net.ne.jp/2008-01-14

さらに、これは関係ないが、Linda Ronstadt,Estela Nunez, Natalie Maribojocという3人の女性シンガーによる"Por un amor"。

http://jp.youtube.com/watch?v=lB-V95tXdsQ
http://jp.youtube.com/watch?v=IDCVhkCD63c
http://jp.youtube.com/watch?v=gjH10PM0wA8

 Little Joeによる"Por un Amor"はスワンプポップ的な3連ロッカバラード、再録では、たぶんいずれもJohnny Hernandezがリードをとっているものと思われます。
 

 さて、1960年代のLatinairesの基本編成は、アルト、テナー、トランペットの3管に、ベース、ドラムス、そしてLittle Joeのギター、彼の弟のリード&セカンドボイス、という7人編成という布陣(Manuel Penaによる。この記述については直接音源にあたって厳密に検証する必要があるだろう)レパートリーはポルカ-ランチェラが中心で、飾り気なく、洗練されてもいず、人気は出てきたが、技術的にはまだ成熟の域には達していなかった(Musica Tejana,p.154)。
 1965年には、同じZarapeから"Amor Bonito"を発表。勿論名歌手、Lydia Mendozaのレパートリーとして有名な曲。
 Little Joeの演奏はyoutubeで。

http://jp.youtube.com/watch?v=BOXkv81S24E

 さて、60年代の彼を取り巻く状況はどうであったか。

 Manuel Penaの"Musica Tejana"には、San Angelo 出身のトランぺッター、Tony"Ham"Guerrero(後のTortilla Factoryのリーダー)が1964年、西海岸Oaklandで経験したことについて触れている。

 「(西海岸では)テハーノ・ダンス/チカーノ・ダンスの大規模なイベントがあった。Raza(La Raza Unida Party(RUP);組合員のことか? )が周辺の地域から集った。約1000人のテハーノが、着飾り、ダンスし、深酔いした。彼らは毎週土曜日の夜には暴動を起こした。Little Joeはそこで演奏した、そしてLos Gorrionos del Topo Chico, Tony De La Rosa, Ruben Veraも。そのころレギュラーで演奏していた最も偉大なコンフントは、 El Conjunto Bernalだった……, わたしはそこで毎週末演奏をしていた、ホストバンドとして。Rudy and the Reno Bopsもそこで演奏していたかもしれない……,わたしが離脱した唯一のバンドはSunny and The Sunlinersだった。もちろんLittle Joeのバンドとも共演した。」(Musica Tejana,p.150)。

 彼の発言から、1960年代前半には、TexasのConjuntoやMusica Tejanaの音楽家は、ベテランから若手まで、テキサスのみならずカリフォルニアにもネットワークを持ち、西海岸のチカーノ・コミュニティーのサーキットを回っていた、ということが容易に理解できる。

 60年代のtejanoの音楽家たちのコミュニケーションについては、以下のサイト参照。興味深い写真が掲載されています。このページの中程にある白黒写真。1965と記してある。

 http://www.linda.escobar.com/mis-amigos/default.html
 
 これはLinda Escobarのサイトにある写真の一枚。父Eligio Escobarほか、Tony De La Rosa やIsidor Lopezなどのミュージシャン、Joey Lopez,Freddie Martinezなどの音楽制作者たちにまじって、Little Joe、Johnny Hernandezの顔も見える。
 1965年の時点で、1970年代の動向を示唆しているような記念写真で、Joey LopezはJoey (メキシコではDinna)を、freddie MartinezはもちろんFreddieを、1970年代に立ち上げている。
 特にFreddie Martinez, Tony De La Rosa, それにLittle Joe , Johnny Hernandezという、Freddieの立役者たちがこの写真の時点(1965年)でほぼ揃っているのも興味深い。

 また、西海岸のチカーノ・コミュニティーに注目すると、テキサス各地の演奏家が一同に集ることもあった。それにより、ネットワークがより強固になった可能性も考えられる(Conjuntoのネットワークについては、オノリオ氏(from Conjunto J)よりご教示を賜った)。
 
 それと関連して、確証はもてないが、当時、Tony De La RosaのConjuntoにはSteve Jordanがすでに在籍していた可能性がある。そして、こうしたネットワークにより、若いSteve JordanやLittle Joeたちが当時の西海岸で、さまざまな音楽動向や社会の変化に刺激を受けていたことは間違いないだろう。とくに西海岸で展開された、黒人政治運動に触発されて展開されたChicano Powerとよばれる運動やLatin Rockの動向に。

 1960年代のLittle Joeの音楽活動については、前回に紹介したサユールイトシロさんのブログでアルバム紹介が積極的に行われています。LIttle Joeが当時のメインストリームをいかに受容していったかが、かいま見られます。

 以上、おおまかにまとめると、60年代のLittle JoeはTejanoのアーティストとしてそれなりの地位を築くことにほぼ成功し、チカーノ・サーキット(正確にはテハーノ・サーキット)を通してベテランのアーティストとの交流も深まっていった。一方、アルバム発表にあたっては積極的に当時の米国のメインストリーム(特に黒人音楽)からの影響を明確に打ち出した。これらの動向を一本化していったのが、70年代から80年代、おもにFreddieを舞台とする一連の活動になる、ということになるのでしょう。

 今回は60年代の彼についてのラフなスケッチを試みました。次回はどうなるか?

 
 












 



 
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Little Joe [テックスメックス]

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 今回取り上げるのはLittle Joe。
 彼は2008年、第50回グラミー賞のフィールド12、カテゴリー63、Best Tejano Albumを受賞しました(今回はRuben Ramos, Ram Herrera 等も候補に上がりました)。タイトルは"Before The Next Teardrop Falls"。多分Freddy Fender へのトリビュートアルバムでしょう。

 http://www.grammy.com/GRAMMY_Awards/50th_show/list.aspx

 また以前にもご紹介しましたが、ウェブサイト、サユールイトシロエキスプレスがLittle Joeや、ほかのMusica Tejana, Orquestaのアルバムについても精力的に紹介を行っています。興味ある方は、ぜひご参照ください。

 http://sayur-itoshiro.no-blog.jp/nikki/pickup_cd/index.html

 さて本題。アルバムは"Antologia King of The Brown Sound"(Freddie1913)。Freddie時代の2枚組ベスト盤です。

 little JoeはやはりMusica Tejanaの大物であり、やはり今回このCDを紹介するにあたっても、一筋縄ではいきませんでした。

 まずはプロフィールから。Manuel Pena ,"Musica Tejana" と以下のサイトの受け売りです。

 http://www.midomi.co.jp/index.php?action=main.artist&name=LittleJoe&from=artist_bio
 http://www.midomi.co.jp/index.php?action=main.artist&name=LittleJoeylaFamilia&from=artist_bio
 http://www.peermusic.com/littlejoe/littlejoe.cfm?includepage=littlejoebio.cfm
 
 Little Joe は本名Jose Maria Deleon Hernandez。父はSalvador "La Cotorra" Hernandez, 母はAmelia Deleon Hernandez。Texas州中部にあるTemple(Austinから北、Dallas方向に向かう途中にある都市)に、1940年10月17日、13人兄弟の7番目として生まれた。
 彼が生まれてすぐに、家族は大洪水にあい、生まれて2週間後にはTempleの市街地を出ていかなければならなかった。彼らが移り住んだのは黒人居住地区だった。「わたしの最初の思い出は、子供のころのことで、四六時中近所に黒人が、そして黒人の子供がいたんだ」(Manuel Pena "Musica Tejana"より)。
 彼は幼い頃、ふだんはラジオから聞こえてくるMusica MejicanaやCountry and Westernに接していたが、彼ら黒人の隣人たちのおかげでBluesやJazzに親しんだ。
 彼は子供の頃から綿摘みの仕事をし、1954年、季節労働者である父がマリファナの不法所持で捕まり、1955年、彼が15歳のとき、28ヶ月間拘置所に入れられた。「彼が出所したとき、わたしは17歳で、家族の命令を受け入れた。なぜなら、他の兄弟は兵役に服していたからだ」
 というわけで学校も行かず、綿摘みに精を出していたが、幸い、綿摘みからも解放される時がやってきた。
 15歳の時、彼は母からギターをプレゼントされ、音楽の演奏に興味を持つようになっていった。学校の授業はとっくに放棄していたが、1957年17歳のとき、David Coronadoの新しいバンド、David Coronado and the Latinairesに参加しする幸運を得た。バンドメンバーは、David Coronado(alto sax), Little Joe(guitar), Tony Matamoros(tenor sax), Jacinto Moreno(trap drums)という編成。すぐに週末のダンス用バンドとして雇われ、その後、同じ年の末にはTexas州南部の都市、Victoria(Corpus ChristiからHoustonに向かってやや北東にある都市)におけるIsidro Lopezのオープニングアクトを努めるまでになった。このときの思い出をLittle Joeはこう語っている「当時はLittle Joe and the Latinairesではなくて、David Coronado and the Latinairesだったんだ。ステージに立っているのはDavid Coronadoで、われわれは彼を引き立てるためにフロアで演奏していたんだ」(前掲書)
翌1958年にはCorpus Christiのレーベル、Toreroから初めてのレコード、シングル盤、"Safari part 1,part2"をリリースした。ロックの曲で、Manuel Penaによれば、おそらく記念すべきTejano Groupによる初めてのロックンロールの録音であろう、とのこと。

 1950年代後半、Little Joeが登場したころの音楽状況はどうであったでしょうか。
 1955年にはMando ことAlmand Almendarezが、Rioから78回転盤で、Chuck Berry, Clifton Chenierのカバー、"Maybellen"/"Boppin' The Rock"をリリース。1959年には前回でも触れたとおり、Sunny Ozunaが"Just A Moment"をリリース。初レコーディングだった。Sunny Ozunaと、翌60年にはこの曲を取り上げ、録音していたDoug Sahmは同じ1941年生まれ、Little Joeは1940年生まれで、ほぼ同世代でした。
 それぞれの音楽背景の違いにより温度差はあるけど、三者とも、Chuck Berry ,Fats DominoからElvis Presleyに至る、当時米国に渦巻いていたポピュラー音楽の巨大なうねりに翻弄されたことは確実であり、そして三者とも自分たちの音楽を作っていこうという姿勢においても同じ意識を共有していたかしれません。Sunny OzunaとLittle Joeはライバルであり、またSunny と同じ歳のDoug Sahmは積極的に彼の曲をカバーしたし、後年Little JoeはDoug Sahmが亡くなったあと、彼のメモリアルコンサートに頻繁に参加している、ということからも、1950年代末におけるまだ若かった三者の行動には興味深いものがあります。

以下次回


 
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Sunny Ozuna [テックスメックス]


 今回取り上げるのは、Sunny Ozuna。アルバムは"Sunny's Gold"。1989年発表、レーベルはRangelです。第5節でこれまで取り上げてきた、1990年前後に出されたベテランアーティストによる一連のアルバムの系譜につながる一枚、となります。

 Sunny Ozunaは全米ヒットを持つアーティスト。オールディーズや60年代ソウルのコンピュレーションにも彼の曲はしばしば取り上げられています。また、アルバムも多数出ており、その多くが現在コレクターズアイテムになっています。
 
 このアルバムが発表されたとき、それほどピンとこなかった。
 がしかし、今回、1990年前後にテハーノのベテランアーティストが出した一連のアルバムを聞き続け、その延長でこのCDを聞いてみるとすんなり入り込むことができ、遅まきながらSunnyの歌のうまさやアレンジのセンスに舌を巻いた次第です。プロデュースがJohnny Hernandezというのも新たな発見で(それまで関心がなかった)、これも好奇心をそそられます。

 彼のバイオグラフィーについては以下を参照してください。

 まず彼のオフィシャルサイトから。

 http://sunnyozuna.com/page.asp?PageID=145

  次に「オースティンクロニクル」のコラムから。

 http://www.austinchronicle.com/gyrobase/Issue/story?oid=oid%3A388445

 以上をもとにざっと彼の経歴を紹介してみます。

 彼は本名、Ildefondo Fraga Ozuna。1943年、サンアントニオ市のサウスサイドに、9人兄弟(11人、12人という記述もあり)のひとりとして生まれ、幼少時代は、その肌の白さからBunny(white rabbit) と呼ばれ、それがやがて彼のニックネーム、Sunny となった、とのこと。
 1950年代、10代前半のころからバンド活動を始め、1957年、14歳のころには後に1971年Latin Breedを結成することになるサックス奏者、Rudy Guerraと最初のコンボを結成。1958年にデビューヒットを出したLittle Anthony and The Imperialsや、Gary Lewis and The Playboysなどがお手本となった同じタイプのバンドだった。
 
 当初はSunny Ozuna(Vo), Rudy Geurra(sax)に加えて、Norwood Perry(Bass), Al Condy(Guitar), George Sttrickland(Drums), というメンバーで、地元のクラブや軍人慰問施設などを回り、高校の授業が終わったあと、ラジオの子供番組にも出ていた。
 1959年、16歳のときに初レコーディング、"Just A Moment"。素晴らしいバラードで、とても10代の若者が歌ったとは思えない名曲。ちなみにそれから2年後1961年には若きDoug Sahmがこの曲を録音し(未発表録音は1960年に行われた)、1963年にはシングル盤としてリリースしている。

 Doug Sahmの "Just a Moment"は以下で試聴できます(Sunnyのヴァージョンは未発見)。

http://www.amazon.co.jp/San-Antonio-Rock-Recordings-1957-1961/dp/B00004RDS0/ref=sr_1_25?ie=UTF8&s=music&qid=1202170603&sr=8-
 
 要するに、Sunny Ozunaにしても、Doug SahmにしてもSan Antonioの「恐るべき子供たち」だったようで、こうした若い世代がスポットライトを浴びる土壌が、当時のSan Antonioという街にあったと言えるかもしれない。
 
 Sunnyは同世代の若者が青春を楽しんでいる間にも、ピアノのレッスンをしたり、バンド活動をこなしたり、と多忙を極めた。そうした音楽仲間のひとりにRandy Garibay(1939-2002)がいた。彼もDoug Sahmと縁の深いミュージシャンで、Dougのシングル、"Crazy Daizy"やDoug Sahm and the Dell Kings名義の録音に、ギタリストとして参加している(Doug Sahm "San Antonio Rock",Norton Records ED274より)。彼のサイトおよびバイオは以下のとおり。
 
http://www.allstar-sanantonio.com/randy.htm

http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/GG/fgaam.html

 一説によれば、Randy がピアノで"Talk To Me"の練習をしていたのを聞いたSunnyがこの曲をレパートリーにすることに決めた、とのこと。

 その後Sunnyは、シングルとしては、Jose Alfred Jimenez の曲" Pa, Todo El Ano "を、1962年には"Golly Gee"をColumbia系列のOkehから発表。後者も、後年Doug Sahmのレパートリーとなった。

 そして1963年、Sunnyが20歳のとき、Sunny and the SunglowsからSunny and The Sunlinersに名前を変更し、メンバーもマイナーチェンジを行い、そしてHouston のHuey P. Meauxのプロデュースにより、Teardropからシングル、"Talk To Me"をリリースした。これが全米11位の大ヒットになり、彼は一躍スターダムにのし上がった。

"Talk To Me"はこんな曲です。

http://www.youtube.com/watch?v=uVT24mNeXZU

 "Talk To Me"の作者Joe SenecaはNew Yorkベースのソングライターで、後年性格派俳優に転身、映画"Crossroad"にも出演しているとのこと。彼自身もこの曲のシングルを出したがヒットせず。Little Willie Johnのシングルは1958年トップ20ヒットになった。しかし、全米にこの曲を知らしめたのは、やはりSunny Ozunaの功績といってよいだろう。

 この曲によってSunnyは一躍スターとなり、Dick ClarkのAmerican Bandstandに出演、また高等学校の上級クラスも卒業した。その後、Foy Lee and Huey P. MeauxのTeardropおよびCrazy Cajun、Johnny ZaragozaのKeylockなどのレーベルから、英語曲もスペイン語の曲も含めて多数のシングル盤やアルバムを発表、1970年代には映画にも出演、1980年代にはFreddieからもアルバムを出すようになり、近年は、Freddie Martinez, Augustin Ramirez, Carlos Guzmanと, The Legendsというチーム名でツアーを行っている。
 The Legendsの映像は以下のとおり(リードはAugustin Ramirez,Sunny は歌っていません)

http://www.youtube.com/watch?v=1VS_x93eqvE

 Sunny Ozunaは1970年にはリンパ腺の免疫力低下による肥大で入院、手術を受けた。1987年には第1回目の、1999年には2回目の心臓発作に見舞われたが、いずれも克服している。

 ミュージシャンのインタヴューは、そのときの状況に合わせてサービス精神を発揮したり、インタヴュアーに合わせた回答をするので、いくつかのインタヴューを総合しようとすると齟齬や矛盾が生じ、本音はいったいなんなのか、わからなくなることがある。

 Sunnyの場合もそうで、Austin Chronicleのインタヴューでは(おそらくLa Onda Chicanaをクローズアップするために)Little Joe との友情が強調されているが、Manuel Pena のインタヴューでは、スペイン語で歌うのが苦手だった、と告白している。

 ラテン系音楽家のご多分に漏れず、Sunnyもたくさんのレコード、CDを出しており、彼の音楽の全貌を把握するのは、意外に難しいかもしれません。

 このCDは今から20年くらい前に出された、彼の名曲をアレンジしなおしたベスト盤で、彼の入門編としてはお勧めです。一応現在でもカタログには出ていますが、ちょっと入手しづらいかもしれません。念のため、以下サイトをお知らせしておきます(テハーノクラシックス)。

http://www.tejanoclassics.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=tjc&Product_Code=BS3001&Category_Code=SOZ

 また近年の彼の活動も念のため、アップしておきます。

 まずダラスのLatin Expressとの共演。

http://www.youtube.com/watch?v=UMEq8fmUfAs
http://www.youtube.com/watch?v=HkY2o8lxQTI

次は2007年12月のテレビ出演から前半部分。

http://www.youtube.com/watch?v=rxx5JE8El5U

次はAviso Bandとの共演。

http://www.youtube.com/watch?v=mnVN7Y2glHc

 近年の映像やこのCDからは円熟したボーカリストとしての彼の姿が浮かび上がってくると思います。

 Sunny Ozunaの音楽については、例えば、R&BやSoul等のシングルコレクターのレベルやMusica Tejanaのレベル、はたまたTexas〜Louisiana周辺のSwamp Popのレベルなど多様なレベルから、捉えることができると思います。

 現在の彼は、多分米国でも日本でも、"Talk To Me"のイメージがあまりにも強いのかもしれませんが、Musica Tejanaの音楽家としての彼の側面は今後再評価されていくものと予想されます。

 

 

 


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追悼 Lydia Mendoza [テックスメックス]

 2007年12月20日、偉大な歌手、Lydia Mendozaが亡くなりました。1916年5月21日生まれ、享年91歳。1988年に引退し、その後約30年間、サンアントニオのナーシングホームで暮らしていたようです。
 彼女の逝去を知ったのはmixi内コミュニティ、日本コンフント協会トピックへの、サンアントニオ在住の友人からの書き込みによってでした。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=26301104&comm_id=551700

 その後アーフリーのサイトから、Ramiro Burrさんの追悼記事がリンクされました。そこには晩年の彼女の姿が映し出されています。

http://www.mysanantonio.com/news/metro/stories/MYSA122207.01A.LydiaMendozaobit1227.28a23e0.html?npc

 彼女についてはわたしも昨年9月、ブログで取り上げました。

http://blog.so-net.ne.jp/texmexstrikesagain/2007-09-02

 このときネット検索を使って彼女のことを調べ、まだ存命だったことを知ったときは驚きました。

 恐れを顧みず彼女の偉大さを語れば、南部テキサス/メキシコ北部で育まれた、しなやかな風土的感性と、音楽家としての強靱性を兼ね備えたシンガー、と表現したいと思います。

 もともとメキシコでランチェラといえば庶民の歌のことを指しますが、発声法や唱法はクラシックのそれに近かった。それを自分たちの歌い方で自分たちの歌として豊かに表現していったのが、メキシコ北部、テキサス南部に住むメキシコ系の人々であった、その代表がLydia Mendozaだったと、わたしは思っています。

  "La Alondra de la Frontera"("The Lark of The Border") と呼ばれた真に偉大な歌手の逝去に際し、改めて深い哀悼の意を表したいと思います。

 合掌。

 
 


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Johnny Hernandez [テックスメックス]

 
 今回取り上げるのは、Little Joe Hernandezの弟、Johnny Hernandez。アルバムは"Poquita Fe"。2005年Haciendaからの再発です。オリジナルの発表年は、現時点で手許に資料がないのでわかりませんが、おそらく1980年代後半から1990年代ころじゃないかと思います。当時、Tex-Mexで表題の曲"Poquita Fe"(Little Faith)が盛んに演奏されていたからというのがその理由です。

 このアルバムが面白いのは、選曲、人選などのユニークさと、シンセサイザー等のデジタル機材へのアプローチのユニークさにあると思います。以下で試聴できます。

http://www.haciendarecords.cc/Merchant2/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=HROC2000&Product_Code=HAC-7710+C&Category_Code=Johnny+Hernandez

 Johnny Hernandezは1950年代から、兄、Little Joeとととに活動を続け、60年代にはすでにLittle Joe & Johnny として、ステージでリードボーカルをとることもありました。1983年にはFreddieより初のソロアルバムを発表。その後多数のアルバムを出し続けています。(ブルースのCDもあり)

 アルバム、"Poquita Fe"は全10曲、そのうち半分の5曲はランチェラで、ほかの5曲は、クンビア2曲、ボレロ(バラード)、ブルースバラッド、あとValciada(多分ワルツのリズムのバラード)など。ランチェラという表記でも3連のバラードもあるから、曲調の区分は、それほど厳密ではないようです。

 注目曲は、表題の5曲目、"Poquita Fe"、4曲目、Ruben Ramos作曲の"Mi Prietita"、それに最後の"Pledging My Love"。

 "Mi Prietita"はパワーフルなポルカ/ランチェラでRuben Ramosの曲づくりの才能に脱帽。そして作曲者とJohnnyのデュエットというサプライズもあります。お互い声質が近く、渋さと開放感が混ぜ合った雰囲気を作っています。もうひとつのサプライズはSteve Jordanの参加。彼のアコはあいかわらずトリップ感に溢れ、さらにシンセサイザーと競り合って面白い効果を上げています。
 "Pledging My Love"はいわずとしれたJohnny Ace 1955年の大ヒット。もちろん多くの人がカバーし、スタンダード化されています。Aaron Neville も"Orchid in the storm"で取り上げていましたね。
 "Poquita Fe"はAOR的なアレンジが微笑ましい。

 "Poquita Fe"は、テキサスのみならず多くのラテン系アーティストから愛され、盛んに取り上げられました。

 まず作曲者。クレジットにあるBobby Capoをwikipediaで調べてみると。

http://en.wikipedia.org/wiki/Bobby_Cap%C3%B3

歌詞は以下のとおり。

http://www.micancionero.com/canciones/poquita_fe.php

 ざっと紹介すると1922年、Puerto Rico出身の名歌手であり、優れたソングライター。ボレロの名手として知られている。戦前1940年代ニューヨークに進出し、Xavier Cugat楽団に参加、彼はメキシコの名曲、"Besame Mucho"をポピュラー曲にアレンジしたことでも知られ、このアレンジはThe Beatlesにまで踏襲されている。戦後はあのCortijoとも交流があったとのこと。"Poquita Fe"は1960年代中頃、Jose Felicianoの演奏でビッグヒット。1989年没。

 この曲を取り上げたアーティスト・アルバムを紹介しましょう(試聴等できるものはアドレスを掲載しました)。

"Flaco's Amigos",Flaco Jimenez, 1988.
Ry Cooder のアレンジによるSanto & Johnny 風インスト。スライド・ギターとアコーディオンの絡みが官能的。

http://www.arhoolie.com/titles/3027.shtml

"Si Todas Fuerran Como Tu", Roberto Pulido y Los Clasicos,1990.
これはEMIラテンから出されたもので、多分現在品切れ中。リイシューのベスト盤を確認してみたが、Poquita Feが入っているものは見つからなかった。できはすごくいいです。

"Frontejas",Tish Hinojosa, 1995.
これは以前も取り上げたTishの歌入りバージョン。アコーディオンはBrave ComboのCarl Finch。
http://www.amazon.co.jp/Frontejas-Tish-Hinojosa/dp/B000000368/ref=sr_1_15?ie=UTF8&s=music&qid=1200142145&sr=8-15

Jose FelicianoはYoutubeから。
http://www.youtube.com/watch?v=Sutg6iRCET0
Jose FelicianoはBoby Capoと同じプエルトリコ出身で、おなじボレロ歌手、ということでこの曲を取り上げたのでしょう。

Youtubeにはほかにも映像があるので、興味のある方はチェックしてください。

http://www.youtube.com/results?search_query=Poquita+fe&search=Search

その中から、Trio Los Trez Reyes とAna Gabriel、そしてサルサのPete "El Conde"Rodriguezの演奏を紹介します。

http://www.youtube.com/watch?v=v6pt5u7VgDE
http://www.youtube.com/watch?v=hiTCeP3Ti7k
http://www.youtube.com/watch?v=Y92GUg98Gho

 以上、脇道にそれましたが、名曲、"Poquita Fe"の素晴らしさを伝えることができれば嬉しいです。

 最後にまとめ。

 以上のことから、Bobby CapoからJohnny Aceまで、Ruben RamosからSteve Jordanまで、さまざまな音楽家がこのアルバムに彩りを添えている事がわかります。もちろんこれらがJohnny Hernandezのバックボーンであることはいうまでもありません。

 そして最後にこのCDのもうひとつの特色である、電子楽器の多用を指摘しておきたいと思います。コンフントやオルケスタの様式性にこだわるとともに、その時代に普及している電子楽器や録音技術も積極的に取り上げ、しかもそうした実験(?)にもにくいセンスを発揮しているという点で、テックスメックスの懐の深さを感じさせるアルバムでありました。

 

 

 

 


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新年特別編:CLAN RECORDS [テックスメックス]

 あけましておめでとうございます。新年はいかがお過ごしですか。

 わたしはお正月気分はほとんどなく、いつもとかわらぬ休日といった感じです。

 さて、昨年末、レコードやCDを整理していて、昔のチラシやパンフレット類を見つけました。

 そのなかでCLAN RECORDSの非売品パンフがあまりにもよかったので、懐かしさとともに、新年特別編として、ここに紹介しようと思います。

 パンフのタイトルは「Come On Let's Go」。1988年末(20年前!)の発行で、発行者CLAN RECORDS店主はRoberto Pulidoをレビューしています。

 "Otra vez A La Cantina "(1985)
 "Un Rosal"(1985)
 "Simplemente"(1986)
 "El Bandoro"(1987)
 "desede Mi Rancho"(1987)

 この号は4回目で、上記5アルバムをレビューしています。過去3回をふくめるとトータルで17枚、Roberto Pulidoのアルバムを紹介し ていることになります。

 かいつまんで概要を紹介すると、なんと1988年の時点でRoberto Pulidoの革新性を十分に捉えていることに驚かされます。

「 次の"Simplemente"ではシモンズを動入(導入)し一応ポップなサウンドは完成される。これはかなりの秀作。"El Bandoro"ではシモンズの使用をやめてしまうのだが、シンセを使わなくても自分達のサウンドが充分モダンだとわかったんだろう」

「アコーディオンとホーンセクションというグループの基本は17枚のアルバムで共通しています。これはロベルト・プリードが造ったスタイルとして歴史に残るかもしれない」
 
などの表現に筆者の知見が伺われます。

 このほか、このパンフでは英国盤のラテンソウルのリイシューのレビューやSteve CropperとBooker T. のいないMGsのアルバム紹介、テキサスールイジアナの1988年、年間ベスト10を発表しています。

 1位 Roberto Pulido "Desde Mi Rancho
 2位 Brave Combo"Humansville"
 3位 Freddy Fender"Aqui esto Yo"
 4位 Herman Guiee"Let's Go To Mardi Gras"
 5位 Steve Jordan"Juan Charsquis"
 6位 Wayne Toups"Jahnnie Can't Dance"
 7位 V. A. "Zydeco Birth"
 8位 Rockin Sidney "Creola"
 9位 Ponty Bone "My My Look at This"
10位 Flaco Jimenez"Flaco's Amigos

 なつかしいですね。Brave Comboは日本で熱狂的に受け入れられました。Mitch Marlineは阪神タイガースのイニシャルの入ったTシャツを着ていた、などが話題になった時代です。

 CLAN RECORDSはSteve Jordanの国内盤のLPやCDを出していたからご存知のかたもいるかと思います。

 なぜわたしがこの記事を書いたかというと、1988年という時代にテックスメックスの優れたリスナーがいたことを伝えたかったからです。

 現在こうしてテックスメックスのご案内を運営するに際し、昔のパンフレットを読み返すと、改めてCLAN RECORDS店主の恩恵を受けていると痛感します。

 わたしはCLAN RECORDS店主とともにある一時期テックスメックスを紹介する活動をしていました。しかし、ささいな食い違いがきっかけで袂を分かち、今日に至っています。

 CLAN RECORDS店主は当時、サン・アントニオはもちろん、ハシエンダのあるコーパスクリスティーやファルコンのあるマクアレンにもいっているはずです。

 今回は特別編として、1980年代の日本におけるテックスメックス受容の一事例を、個人的な甘くて苦い思い出とともに、紹介してみました。

 


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Alfonso Ramos [テックスメックス]

 今回取り上げるのはAlfonso Ramos。前回紹介したRuben Ramosのお兄さんです。彼は“El Mero Leon de la Sierra”(「山の孤高のライオン」)とか“the distinguished silver-headed living legend”(「たぐいまれなる銀髪の生きた伝説」)などと形容され、テキサスの音楽ファンから尊敬されています。アルバムは"La Verdad Desnuda"。1996年Haciendaより発表されました。

http://www.haciendarecords.cc/Merchant2/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=HROC2000&Product_Code=HAC-7434+C&Category_Code=Alfonso+Ramos

 Alfonsoは、Ruben Ramosのバイオグラフィーによれば、1950年代に彼らの叔父のバンドに参加、それが50年代後半にはAlfonso Ramos and Orchestraに発展した。写真はそのことのもの(Ruben Ramosのサイト、http://www.rubenramos.com/から転載)。

 Alfonso Ramos and Orchestraは1960年代後半には、トップバンドに登り詰めたが、Rubenは1969年、Roy RamosがつくったMexican Revolution(後のTexas Revolution)に移った。 1985年ころからArfonsoがTexas Revolutionに参加するようになり、兄弟の再会が実現した。

 ざっとこんなところですが、このアルバムは1996年発表。前回紹介したRuben Ramosの"El Gato Negro Smooth"が1997年、またRubenが参加したLos Super Sevenが1998年、というところから、この当時の音楽状況が浮かび上がってきます。

 このアルバムはほとんどが、Ernest Ruiz(drums)、Joe Ramos(Synthesized Bass, Guitar, Accordion ほか)、Charles Reyna(Trumpet)、Alfonso Ramos(Vo, Sax)という編成、ホーンセクションは、Joe Ramos , Charles Reyna, Alfonso Ramosの3人が担当しているので、音はゴージャスだけど演奏者の数は少ない、という現象が起こります。

 これも時代を反映させているのでしょう。90年代半ばは、録音機材、楽器、ともどもディジタル化が進んでいたから、ということですね。

 人数は少ないけど(前回のRubenと対照的)、アレンジ、演奏、歌唱、それに曲の選択など、すべて職人芸で対処していったという印象のアルバムです。これについては当然ながらJoe Ramosの貢献が大きいでしょう。

 時代的にはアコーディオンのパートやホーンセクションもシンセサイザーで演奏する、という時期に完全に入っているけど、やはり古いアメリカンポップス、ラテン、そしてオルケスタをよく知っているAlfonsoならではの音作りです。

 1曲目、"Destino Cruel "はEloy Bernal作曲、古典的なConjunto Bernalのレパートリー。でもこんな昔の名曲をよく取り上げますね。おなじく古典的な作品として4曲目、ランチェラメドレーの1曲目、Isidro Lopezの"Un Nuevo Contrato"もあります。Orchestaというより、Mariach Conjuntoとでもいうのかな。Alfonsoの歌が素晴らしい。

 アルバムのクオリティーはとても高いと思います。曲の構成はランチェラとその他のラテンやロックを交互に取り上げ、全部で10曲としていますが、全体に違和感なく、統一感をもって完成させています。Alfonsoの歌はRuben よりちょっと甘い感じ(sweetということです)、このアルバムからもそのすばらしさは十分伝わってきます。

 最後にYoutubeで彼の映像をどうぞ。あ、前回取り上げたRubenも、ここにまとめておきましょう。

まずはAlfonsoから、すごくいい。

http://www.youtube.com/watch?v=LCnsN1ET0n8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=7oVOFo2JTMY

Rubenの映像はかなりあるみたいですね。

http://www.youtube.com/watch?v=iOy-XxwrjKs&NR=1#

 次はTexas Revolution時代のもの。画質わるいけどこれもいい。

http://www.youtube.com/watch?v=b1ZQAP5RUdw&feature=related

 最後は感動的なRubenのMariachから。たぶん曲は"Paloma Negra"(黒い鳩)だと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=cWgPfp68v3w&feature=related









 


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Ruben Ramos [テックスメックス]

 
 本ブログ、第5節は、主にオルケスタの系譜を追いかけていきたいと思います。
 今回取り上げるのはRuben Ramos。Musica Tejanaの歌手です。アルバムは1997年に発表された"El Gato Negro Smooth"。レコード会社はVirgin、プロデューサーはJoel Guzman。以下で試聴できます。

http://www.amazon.co.jp/Gato-Negro-Smooth-Ruben-Ramos/dp/B000000WFJ/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=music&qid=1197092326&sr=8-1

 まず、彼のプロフィールから。彼のホームページにあるBioを参考に記してみます。

 http://www.rubenramos.com/

 Ruben Ramosは、音楽家のファミリーに生まれ、叔父にJuan Manuel Pelezがいた。彼は1919年から1941年まで"Juan Manuel Pelez and The Serenaders Circa"を率いて活動をしていた(おそらく兵役のための解散であろう)。バンドメンバーには9人の叔父が参加していた、とのこと。
 結局、Ruben Ramosと彼のファミリーは、音楽活動を継続的に今日にまで続けてきたということになる。
 戦後、彼の一家は農業などの仕事をしながら音楽活動を続けた。1947年には彼の姉が歌手になり、彼の兄Alfonsoが叔父のバンドに参加、1950年代にAlfonsoはオーケストラを結成。この楽団にRamos兄弟(5人)は全員参加した。演奏内容はcha-cha, cumbiaから boleros 、 rancheraなど、おそらく標準的なOrchesta Tejanaだったのでしょう。Rubenは英語でR&Bを歌うのことが多かったようだ。彼は1960年代を通してこの楽団で音楽活動を続けたが、転期が訪れた。1969年に兄、Royが新たなバンド、"Mexican Revolution"を結成。Rubenはこのバンドのフロントとして参加した。バンド名が当時盛り上がっていた市民運動であるチカーノ・ムーブメントに連動し、支持を得て、ダラス、フォートワースからリオグランデ・バレーに至るチカーノ・サーキットを回るようになった。
 1981年には、当時新しい概念として出てきた"Tejano"に合わせ、バンド名を"Texas Revolution"に変更。1985年には兄のAlfonsoがTexas Revolutionに参加した。その後彼はバンドとして、あるいはソロとして多数のアルバムを発表している。

 ざっとこんなところですが、彼のバイオを調べていて気づいた事は、まずManuel Pena の"Musica Tejana"やJuan Tejadaの"Puro Conjunto"などの本にはRuben Ramosの名前はほとんど出てこない、ということ。Texas Onlineで検索しても出てこない。"Puro Conjunto"ではホーンセクションの分析で少し取り上げていますが。しかし彼のホームページにあるバイオを読むとOrchestaの歴史という観点からも興味深いし、ひとつの音楽一家の歴史としても興味深い。これはどういうことなのだろう。

 ということで、今回のCDを紹介します。
 
 1997年に出されたこのCD, おそらく当時、Virgin Records Americaの米国進出戦略の一環として出されたものでしょう。同時期、同レーベルでFlaco Jimenez、Bozz Scaggs, John Lee Hookerなどがリリースされており、それぞれのアルバムから(英国からの)米国音楽へのオマージュが伺われます。このアルバムも同様。またアルバムを作ろうとする情熱が伝わってくる一方で、企画もの的な矮小性も伺えます。

 ま、それはともかく、内容をみてみると。

 まず伝統的なコンフントのサウンドをオルケスタにアレンジしたものが5曲。全体のほぼ半分にあたります。アレンジはリトル・ジョーのアルバムプロデュースを長年手がけてきたJoel Guzman。彼は、今回ミュージシャンではなく、プロデューサー、アレンジャーとして参加しています。
 1曲目、"Como Un Suspiro"、2曲目"tierras Planas Del West" ,4曲目、"Canal Seco",5曲目"Por Tu Carino", 9曲目"Bailas Muy Suave"がポルカ。5曲目の作曲はSteve Jordan。ほかの曲調は、マリアッチ、ワルツ、サルサ、ロック(ブラスロック)など。いずれもリズムアレンジ、ホーンアレンジから電子楽器、コーラスまで、隅々にまで細心の注意が払われているという印象です。
 
 演奏者は彼のファミリーバンド、Texas Revolutionを中心に、ホーンセクションやコーラスのゲストを加え、厚いサウンドになっています。またゲストにAlfonso Ramosを迎え、兄弟の再会を実現しています。
 Ruben Ramosのボーカルは、年輪を経た渋い声を聞かせてくれていますが、リズミックな曲ではあの強烈なホーンセクションに対抗しており、サルサの曲は、Ismael Mirandaばりの美声を聞かせてくれています。

 このアルバムの概要はおおよそ以上のとおりですが、わたしがこのアルバムをよいと思うのは、やはりオルケスタの伝統性が良く出ている、という点にあります。これは、それを知り尽くしているプロデューサーの功績でしょう。オルケスタの伝統性という点では、Texas Revolutionの長年にわたる演奏活動の積み重ねもこのアルバムに貢献しています。
 大衆的な人気に比して評論家はあまり取り上げていないという印象もあるけど、やはりMusica Tejanasを代表するアーティストであり、Musica Tejanaを語るとき、彼を避けては通れないのは間違いないと思います。

 

 

 

 
 
 

 


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第4節のまとめ [テックスメックス]

 いままで、CDの紹介を中心にこのブログを運営し、コラム的な記事は、番外編で、ひとつの節に1回くらいコーヒーブレイク的に入れていたのですが、今回はかなり変則的な構成になってしまいました。

 これは極めて個人的な理由で、あるブルースマンの録音記録に接して以来さまざまな妄想が頭をよぎり、その妄想を確認しようと試みたのが、今回の4つのコラム(前節を含めると合計で5つ)というわけです。
 しかし「テックスメックスのご案内」という本来の主旨からはずれているのは明らかで、その点ではこのブログをお読みいただいた方には申し訳なく、ここで謹んでお詫びを申し上げたいと思います。またわたしの妄想のささやかなトリップにおつきあいくださったことに対し、感謝を申し上げます。

 妄想とはいえ、まったく成果がなかったかといえば、そうでもなく、改めて、ここで今回の番外編について整理して、今節の4つの番外編の意義を明らかにしておこうと思います。

 今回の4つの番外編の目的は1930年代後半におけるテキサス北部の ダラスという都市の音楽状況を、詳しくとはいかないまでも、ある程度状況を明らかにしたい、ということでした。

 なぜダラスかといえば、ダラスは戦前のテキサスにおける2大音楽産業都市のひとつであり、もう一方の、このブログの主人公であるといえるサンアントニオという都市の状況を明らかにする前に、ダラスという都市をはっきり認識したい、という動機がわたしのなかにあったのです。

 テックスメックスのことを紹介するのにそれほど関連があるとは思えないダラスですが、やはり調べてみると面白かった。

 新興都市のバイタリティーとともに、アメリカというメディア社会がダイナミックに発展していく姿が、ダラスという都市から知ることができました。

 それにくらべて、というわけではありませんが、ではサンアントニオという都市はどのような特徴があるか、というのが次節以降の課題となります。
 もちろん、ダラスとサンアントニオというふたつの都市を比較するというアイデアを与えてくれたのは、あの有名なブルースマンです。

 月並みな結論ですが、やはり戦前のダラスが発展したのは北部白人資本がダラスという都市に投下され、それにみあう音楽スタッフがダラスに存在した(とくにBob Wills)ことと、もうひとつ、アメリカという広大なメディア社会において戦前の大衆音楽がより多くの人々にアピールするには、それなりの強力なパワーが必要だった、そしてダラスにはそれ(つまり黒人音楽)があり、アングロ系白人はそれを吸収することが可能であった、ということです(これは戦後のロックにつながっていきます)。

 以上が番外編についての言い訳みたいな結論ですが、今節で取り上げたCDについても触れておきます。

 今回は、比較的最近入手したものを中心に、とくに主旨とかテーマを考えずにピックアップしてみました。Steve Jordanは今年になってからリイシューされたものだし、ほかのCDも概ねここ2,3年(Janie  C. Ramirezは除く)のうちに発表されたものです。

 今回選んでみて気がついたのは、テキサスのメキシコ系アーティストが自らの独立レーベルをつくって音楽活動をしている、という傾向がある、ということです。
 Joel Guzman/Salah Foxの Guzman/Fax Record、Linda Escobar のEscobar Records、Buba Hernandezの
Moon Zero Bird Recordsなどはその一例です。

 デジタル録音の普及やインターネット配信など、ある程度自分たちの手で販売努力できる環境ができたのもその要因といえるでしょう。

 そんなわけでこの第4節をおわりにして、次回から第5節に入ります。はっきりしたアイデアがあるわけではありませんが、Little Joe を中心に、Chicano という言葉を考えてみたいな、という気もしています。それからわたし自身あまり妄想にひっぱられないで、音楽の紹介、という本筋を見失わないよう心がけたいとも思っています。


 

 

 
 
 
 

 


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番外編:テックスメックスとウエスタンスウィング;Dallas(4) [テックスメックス]

 第4節の最終回。今回も番外編。テーマはウエスタンスウィング、そしてDallasの第4回目でもあります。
 ウエスタンスウィングの歴史をきちんと書いていたら収拾がつかなくなります。その概要やCD・文献については以下をご参照ください。

http://en.wikipedia.org/wiki/Western_swing#History
http://www.westernswing.com/

 今回取り上げるのはBob Wills。ウエスタンスウィング最大の功労者、米国ポピュラー音楽の歴史に名前を残す大物です。その彼のDallas時代(1935年から1941年ころまで)について、"For The Last Time"(1975年)(以下、日本盤と略す)の島田耕氏によるライナーノーツ、および"Legends of Country Music"(2006)(以下、ボックスと略す)のRich Kienzleの解説を参照しながら、紹介してみたいと思います。
 
 Bob Willsは1905年3月6日、Dallasから南65マイルほどはなれたLimestone Countyに生まれ、父も農夫であると同時にフィドラー(バイオリン弾き)でもあった。彼は幼い頃からヒルビリーのフィドルチューンを演奏し、また黒人のブルースも身近に親しんだ。シェアクロッパーとして黒人の同僚といっしょに農作業に従事し、その際彼らの音楽を直に聞いて衝撃を受けた、とのこと(ボックスの解説より)。若い頃、馬に乗って50マイル離れた町までBessie Smithを観に行ったというエピソードも残っている(日本盤の解説より)。

 1915年、10歳のときに父の代役でフィドラーとしてステージに立ったのがミュージシャンのスタートで、その後、若い頃から住処も仕事も転々とし、1926年に結婚、一時は床屋をしたが、うまく行かず、メディシンショー(白人が自らの顔を黒く塗って黒人のまねをする芸人一座)に参加してミュージシャンとして目覚めたようだ。

 その後、優れた音楽家でタバコ売りでもあったMilton Brothersに出会い、意気投合。これが、ほぼTexasにおけるウエスタンスウィングの出発点といっても過言ではない。1930年ころには伝説の悪漢、ボニー&クライドも入り浸っていたCrystal Springのダンスホールで演奏をしていた。

 Bob Wills とMilton Brothers そして彼らがプロとなったきっかけとなったバンド、The Light Crust Dough Boys の関係はかなり入り込んでいるので、ここでは省略。ただ、すぐれた音楽家が集ったThe Light Crust Doughboysの主なメンバーがそのままBob Willsのもとに残り、それが Bob Wills & His Playboysとなったことだけは記しておきたい。

 ここで初期のBob Wills & His Playboysの録音に注目してみよう。まず1935年9月23日Dallasの録音(Okeh)から。

 "Osage Stomp" :オリジナルはMemphis Jug Band "Rukus Juice and Chitlin"
 "Get with it":長年にわたってThe Texas Playboysのリードボーカリストを努めたTommy Duncanの処女作。この曲は黒人ストリングスバンド、MIssissippi Sheiksの1930年録音"Jazz fiddler"がお手本となっている。
 "Spanish Two Step":Bob WillsのFiddleをフューチャーしたインスト、当時かなりヒットしたとのこと。
1927年、 BobたちがNew Mexicoで演奏しているときに出会ったメキシコ人の演奏家の影響を受けてこの曲を作った、と記してある(ボックスの解説より)。メロディーラインは軽快かつ滑らか、曲のコード進行・構成はのちの"San Antonio Rose"を想起させる。そしてこの雰囲気こそが、Bobがメキシコ人の演奏から感じ取ったものであろう。
 "Maiden 's Prayer":Bobが父から教わったFiddle ソロ。
 "I ain't Get Nobody":Emmet Miller(白人エンターテイナー、ボードビリアン。Ry Cooder が"Jazz"で彼の曲を取り上げている)のレパートリーから。このメロディーは古いJazzが好きな人にとってはおなじみのもの。たしかMills Brothersもこの曲をやっていた。Emmet Millerの略歴と画像はこちらをどうぞ。

http://en.wikipedia.org/wiki/Emmet_Miller
http://www.rootsweb.com/~monodawa/photos/Lucas/miller.htm

 という具合で、彼らのソースはMIssissippi Sheiks、Emmet Miller、メキシコ人の音楽家、Bobの父からの伝授、など多彩を極めた。貪欲に音楽を吸収しようとする傾向は年を経てますます大きくなっていく。彼らが影響を受けたりお手本にした例をいくつか列挙してみよう(ボックスのデータを整理した。名前は演奏者、作曲者とは限らない。かっこ内は実際にBob Wills が録音した曲と録音年)。

 
 MIssissippi Sheiks("Sittin' On Top Of The World", 1935, "Corrine Corrina, 1940)
 Ray Noble Orchestra("Who Walks In When I Walked Out",1935):Ray Nobleは英国人の作曲家、指揮者。Glenn Millerのアレンジで有名になった。
 Big Bill Bloonzy("I Can't Be Satisfied",1935) 
 Memphis Minnie("What's The Matter With The Mill"1936)
 Louis Armstrong("Basin Street Blues"1936, "I'm A Ding Dong Daddy",1937)
 Shilvester Weaver(Steel Guitar Rag,1936 ):現在でも多くの人々に演奏されている名曲の作者の一人、黒人ギタリスト。彼の録音は1923年。この曲は、さまざまな人々(例えばMerle Travis)の手を経て成立し、その過程自体がひとつの神話といえるかもしれない。
 Emmet Miller("Right Or Wrong",1936)
 Jimmie Lunceford's Orchestra("White Heat", 1937)
 Earl "Fatha"Hines(Rosetta,1937):BobはFat's Wallerのヴァージョンをお手本にしている。
 Jimmie Rogers("Blue Yodel#1",1937) 
 Bill Cox("Oozlin Daddy Blues", 1937)
 Georgia White("Black Rider", 1938)
 Bessie Smith("Down Hearted Blues", 1938)
 Charlie Poole's North Carolina Ramblers(Ida Red, 1938):"Ida Red"はトラッドだが、1928年にCharlie Pooleがヒットさせた。この曲は因縁があり、Chuck Berryが、カントリー音楽のファンで、若いころこの曲を、"Ida May"として演奏していた。それが発展し、デビュー曲"Maybelline"となった、とのこと(ボックスの解説より)。
Gene Austin("Tearning", 1938):演奏はTommy Dorsey's Orchestra。BobはTommy Dorsey's Orchestraのファンで、後年"Liebestraum"の完全コピーを行っている。
 だいたい1941年くらいまでがDallas(含む Fort Worth)時代で、同年、Bob Willsはハリウッドに拠点を移し、ほぼ同時に第2次世界大戦が勃発、メンバーの何人かが徴兵さた。

 Bob Willsのコンセプトはストリングスバンドとジャズオーケストラの融合にあり、彼の音楽人生は、それを頑固なまでに貫いた、と表現してもよいでしょう。

 Duke Ellington楽団も、1920年代にはバンジョーを入れ、string Band 的な側面もありましたが、それは次第に排除されていきました。

 Bob Willsはかたくなに自らも演奏するFiddleという楽器にこだわり、ジャズオーケストラのダイナミズムを取り入れたいと願い、それがWestern Swingとして結実した、といってよいでしょう。それが戦後のカントリー音楽に決定的な影響を与え、さらにそれがロカビリーの発生にまで及んでいるのは間違いないと思います。

 これは私見ですが、結局Bob Willsのストリングス・バンドとジャズオーケストラの融合のコンセプトを実現したのは、(Bobのスタイルを継承した人々を除いては)チカーノカントリーに端を発し、やがて自らの楽団を大編成のMusica Tejanaに発展させていったRoberto Pulidoくらいしかいなかったのではないか。そんな気がしてなりません。

 なお、ウエスタンスウィングにおける民族音楽の影響としては、まずBob Willsの"New San Antonio Rose"。これはオリジナル曲に歌詞をつけた物ですが、ホーンアレンジがマリアッチ調になっています。ちょっとステレオタイプ的な印象もありますが(ハリウッド録音というのもその原因?)、Sir Douglas Quintetを先行している、という捉え方もあるかもしれません。次にAdolf Hofner and His San Antoniansによる1941年Dallas での録音、"Cotton Eyed Joe"これは、やはりColumbiaから1992年に出たボックス、"Retrospective"に収録されています。彼の名前はTexas音楽のガイドブックにも良く出ていて、テキサスにおけるスラブ系、ドイツ系の音楽の影響として指摘されています。この"Cotton Eyed Joe"も後年、Sir Douglas Quintetがカバーしたりして、注目せざるをえないのですが、特に際立った特徴を見いだし得ません。同様にMexicoの曲を演奏するウエスタンスウィングバンドとしてNite Owlsがあります。
 やはりBob Willsがテックスメックスから影響を受けた要素より、彼がテックスメックスの演奏家に与えた影響のほうが大きいかもしれません。Isidor Lopezは確実で、Tony De La Rosaもウエスタンスウィングが好きだ、とインタビューで答えていたと記憶します。

 今回はこれくらいで、次に彼の映像がいくつかあるので、ここで紹介します。

まず "Sittin On Top Of The World"レコードもこの映像もBobが歌っています。

http://www.youtube.com/watch?v=5sS5jSbV0Vg

 次は演奏と関係ない映像。MVのルーツ?

http://www.youtube.com/watch?v=SGKvobvlnMU
http://www.youtube.com/watch?v=F_MbgheFKxI&feature=related

 次はグレン・キャンベルとの共演2曲(2曲目は" San Antonio Rose")。

http://www.youtube.com/watch?v=t1m7TcIsgUQ 
http://www.youtube.com/watch?v=lZ1lyXkCkuo 

 Texas Playboysの演奏は以下のとおり。
  
http://www.youtube.com/watch?v=kazGR-ihcfQ
http://www.youtube.com/watch?v=4VdV5ikcLIE
http://www.youtube.com/watch?v=9MqcFdwZHoY

 Junior Barnardのすばらしいギター演奏が聞けるGoodbye liza Jane。

http://www.youtube.com/watch?v=R0Wkd0jQ-nw&feature=related

 Texas PlayBoyにも在籍していた偉大なギタリスト、Eldon Shamblinに捧げたビデオクリップと彼のすばらしい演奏。

http://www.youtube.com/watch?v=tPZG8HegCuo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=bcAjVGubf_s&feature=related

 これはおまけ。 チェット・アトキンスとレス・ポールの"San Antonio Rose" 。映像ではないけれども、楽しんでください。

http://www.youtube.com/watch?v=q0WgNY53F_g&feature=related
 
 最後はなんと英国のバンドによるBob Wills トリビュート。この曲を聞いたオースティンやテキサスの音楽ファンはきっと涙を流した事でしょう。オリジナルはWaylon Jennings。
お手数をかけますが、Youyube でBob Willsを検索し、そこから英国のバンド、Rolling Stonesの演奏する"Bob Wills is still the King"を見つけてください。(しょっちゅうアドレスが変更しているみたいなので)
一応、以下掲載しておきますが。

http://www.youtube.com/watch?v=2xECNrYxRUA

 
 


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